「何かいい」は「何がいい」のか。

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表現したい人や組織があるとして、クリエイティブをつくる上でまず大切なことは、対象となる人や組織の「なんかいい」を「何がいい」のかという言葉にできるかどうかだと思います。

 

 

特に僕は画家や作家や音楽家のように1人で何かをつくれる人間ではないので、必ず誰かの力を借りてつくっていきます。その際には必ず「何がいい」のかをパートナーの方々に伝えるという行為があり、ニュアンスを含めてうまく伝えられた時に、いいものが出来上がります。

 

 

心を動かされるものに出会った時に、何が素敵なのか、何が面白いのか、何と似ているのか、何と似てないのか、を言葉にすることが大事だなと常々思います。

 

 

ネガティブな感情の時も同じで、何が苦手なのか、何に違和感を感じるのか、を言葉にすることができれば、その逆側にあるものの素敵さにもまた気付く事ができると思います。

 

こないだ読んだ本の中に印象的な文章がありました。

曽我部恵一さんが、ザ・ブルーハーツの「人にやさしく」について語っています

 

 

【歌い出しが「気が狂いそう」。その後で、「ガンバレ!」。そういうふたつの感情を、あの曲は同時に言えてるのが凄いんだよ。だって、それを言うために、みんな音楽を作ったり歌ったりしてるわけだから。】(スペースシャワーブックス発行「音楽とことば」より)

http://www.amazon.co.jp/音楽とことば-あの人はどうやって歌詞を書いているのか-P‐Vine-Books-青木/dp/4860203070

 

 

 

 

何が素敵か、ということをきちんと誠実に言葉で表現することができれば、その言葉が人を動かして新たなものを生み出していくはず。

 

 

言葉はとても不自由な道具で、認識を言葉にしてしまった瞬間に、認識していた美しさを失ってしまったりします。言葉にしない方がいいもの、言葉になんてできないものばかりだと思います。ただ、社会で「何かいい」ものを表現するには、「何がいい」かを言葉にする力が必要なのだと思います。

クリエイティブ制作は、感性や才能といった曖昧なものによってつくられているように扱われています。もしくは陳腐な計算や一時的な流行りの手法といった浅はかなものによって担保されているものもあると思います。
制作物が表現である限り、「伝える」という原始的な行為の一つであるはずで、その行為の質を高めるための鍛錬を怠ってはならないなと、思った次第であります。要はがんばらないとな、ということでした。